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アニメ『化け猫あんずちゃん』感想|現実感...

アニメ『化け猫あんずちゃん』感想|現実感のあるコミカルさ

はじめに


本作は、いましろたかしの漫画『化け猫あんずちゃん』を原作とし、アニメ化にあたってオリジナル要素を加えた長編作品です。

制作は『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』で知られるシンエイ動画と、フランスの制作会社Miyu Productionsが共同で担当。監督はアニメーション作家の久野遥子と、『カラオケ行こ!』の山下敦弘が務めています。

2024年7月19日に劇場公開された本作は、田舎町に暮らす化け猫・あんずちゃんと、東京からやってきた少女・かりんが織りなす奇妙な交流を、ユーモラスでありながらどこか切なさを帯びたタッチで描いています。

この記事では、ネタバレになる要素を減らすため、あらすじやストーリー展開などは詳しく説明しません
そのため、作品を視聴していないと、理解できない考察なども含まれます。予めご了承ください。

特殊な制作プロセス


本作を観始めると、最初に「音質が悪いな…」と感じる視聴者は少なくないでしょう。
終盤まで聴き進めるうちにその違和感は薄れていきますが、一般的なアニメ作品と比べると、素人の私でもわかるほど声がやや遠く、反響しているように感じられます。

その背景には、本作が「芝居をアニメーションに落とし込む」ことにこだわっている点があります。

制作では、実写映像をトレースしてアニメーション化する「ロトスコープ」という手法を採用。
さらに、セリフも実写撮影時に同時録音することで、その場でしか生まれない自然な掛け合いを重視しています。

こうした制作手法によって、本作は一般的なアニメとは一線を画す、独特で味わい深い仕上がりになっているわけです。

コミカルな世界観が癖になる


化け猫のあんずちゃんは、初登場シーンで原付に乗って現れます。
さらに主人公の少女・かりんに話しかけるだけでなく、携帯電話まで使いこなす姿を見せます。

猫が原付に乗って登場するという強烈なインパクトと、異質な存在にそぐわないほどの人間らしさが相まって、シュールさが際立つ場面です。
私と同じように、「中に人が入った着ぐるみかな」と一瞬考えた視聴者も少なくないでしょう。しかし、その予想はすぐに覆されます。

かりん「あの猫、何なんですか?」
和尚「あんずちゃん?うちで飼ってる猫だけど」
かりん「でも変ですよね、人間みたいに喋ってて」
和尚「あんずちゃんは、化け猫だからねぇ」

かりんが視聴者の疑問を代弁する一方で、和尚はごく当たり前のように答えます。

和尚だけでなく、あんずちゃんは訪問マッサージのアルバイト先や速度違反を取り締まる警察官からも普通に受け入れられており、本作において「化け猫」という設定は、大きな意味を伴うものではなく、コミカルさを添える要素として描かれています。

あんずちゃんが化け猫になった理由


作中では、あんずちゃんが化け猫になった理由は明示されませんが、その背景には日本の民俗信仰に基づく伝承があると考えられます。

日本では古くから「猫は長く生きると妖怪になる」という俗説が語られてきました。
特に寺院は妖怪譚の舞台となることが多く、猫又や火車(かしゃ)といった猫の妖怪も「寺で飼われていた猫が年を経て変化する」という筋立てで語られることが少なくありません。

和尚も劇中で「大切に育てていたら、30年を過ぎて化け猫になっていた」と語っています。

あんずちゃんはまさに寺で大切に飼われてきた猫であり、民俗信仰や妖怪譚の観点から見ても、化け猫になる条件を十分に満たしている存在と言えるでしょう。

かりんの生い立ちからくる人格形成


かりんの母親は、物語冒頭で「3年前に亡くなった」と明かされます。

さらに父・哲也は、20年前に和尚との親子喧嘩で実家を飛び出し、それ以来顔を見せておらず、久々に戻ってきたかと思えば和尚に金を借りたいと相談するような情けない大人です。
かりんが父を「哲也」と呼び捨てにしていることからも、一般的な親子関係とはほど遠く、信頼関係が築けていないことがうかがえます。

このような過酷な家庭環境で育ったかりんは、大人の前で「良い子」を演じる癖がつき、年齢に不相応なほど過剰な社会性を身につけています。

和尚にお金を借りる場面や、同級生からあんずちゃんの情報を聞き出す場面では、年齢や性別といった自分の持つあらゆる武器を使い、相手の心の隙に入り込もうとしています。

大人の視点から見ると、その狙いが見え透いた振る舞いに苛立ちを覚える人もいるかもしれません。
しかし同時に、彼女が幼くしてこれほどの社会性を身につけなければ生きていけなかったという事実が強調され、その救いのない人生に同情を誘います。

母がなぜ地獄にいたのか?


「なぜかりんの母は地獄にいるのか?」という疑問は、本作で最も気になる点の一つでしょう。

久野遥子監督もインタビューで触れている通り、一見すると不憫にも思えるこの設定は、日本の死生観を踏まえれば必ずしも不自然ではありません

民間信仰では、死者の魂は一度あの世(黄泉・冥途)に赴き、閻魔大王の裁きを経て行き先が決まるとされてきました。
さらに、仏教伝来以降の日本では、出産や月経による出血を罪穢とみなし、女性は死後に「血の池地獄」に落ちると信じられた時代もあります。

作中の母・柚季は、地獄で掃除係として働いており、生前に大罪を犯した囚人ではないことがうかがえます。

監督はインタビューで「“お母さん”ではない部分があることを伝えられたらいい」とも語っており、天国にいる聖女のような母ではなく、地獄にいることで「母にも娘の知らない側面や弱さがある」ことを示す演出意図が読み取れます。

なぜ父ではなくあんずちゃんなのか?


ラストシーンでは、父・哲也とともに東京へ帰るため一度は電車に乗ったかりんが、途中で引き返し、あんずちゃんのもとへ戻る決断をします。

哲也もあんずちゃんも、いわば「中年のいい加減なおじさん」を絵に描いたようなダメ人間です。
それでもかりんは、2人の間に明確な違いを感じ取り、あんずちゃんを選びました。では、その基準は何だったのでしょうか。

おそらくかりんにとって最大のフラストレーションは、父・哲也との「親子関係を演じ続けること」にあったと考えられます。

哲也は言うまでもなくロクでもない人間で、親としての役割を十分に果たせる存在ではありません。
それでも、かりんには親を頼る以外の選択肢がなく、頼りない父を親として敬い、自分は「良い子ども」を演じ続ける必要がありました。

一方で、哲也にもわずかながら親としての自覚はあり、かりんの頼みや期待を完全には拒まない中途半端な優しさがあります。
この優しさこそが、親子関係が完全に崩壊せず続いている理由であり、同時にその歪さの源でもあります。

それに対し、かりんとあんずちゃんの関係は、互いに取り繕うことのないフラットなものです。
時には貶し合い、時には助け合い、遠慮や忖度なく感情をぶつけ合える。
例えるなら「年の近い兄妹」のような関係性です。

これまで、親子関係を演じる以外に生きる術がなかったかりんにとって、親は失うものの、素直な感情をぶつけられる兄のような存在と暮らすという新たな選択肢が生まれます。
どちらも恵まれた環境とは言えませんが、後者のほうが魅力的だと判断したかりんの選択は、十分に理解できるものです。

物語の結末


本作は、かりんが寺に戻り「あんずちゃん」と声をかけるものの、再会の場面が描かれない、いわゆるリドルストーリーとなっています。
この演出により、視聴者には「2人は再会できたのか?」という疑問が残り、解釈は個々人に委ねられます。

普通に見れば、これほどコミカルな作品でバッドエンドになるとは考えにくいでしょう。

しかし、ラスト直前に寺で掃き掃除をするあんずちゃんのシーンが挟まれ、その背後で大仏が彼を見下ろし、わずかに微笑む演出があります。
これは、何らかの出来事や役目の完遂が暗示されているようにも見えます。

さらに、制作陣の多くが実写邦画を主戦場としている点を踏まえると、かりんが寺に戻ったとき、すでにあんずちゃんが姿を消していた可能性も否定できません。

さいごに


本作は制作過程からもわかるように、随所に実写映画的な手法が取り入れられており、他のアニメにはない独特の味わいを生み出しています。

その効果もあって、コミカルで癖になる世界観でありながら、どこか重たい現実感も帯びています。
個人的には「面白い趣向だな」と感じましたが、アニメとしては一般的な表現方法とは異なるため、好みが分かれる作品でしょう。

私はクリエイティブな作品には、作り手の明確なメッセージを求めるタイプです。
しかし本作は、最も作り手の意思が現れるはずのラストシーンをあえて観客に委ねており、主張らしい主張はほとんど感じられません

これは、原作の世界観を損なわず「芝居をアニメーションに落とし込む」ことを重視した結果だと考えられます。
些細で現実的な場面を丁寧に描き、その日常の中にさりげなく問いを忍ばせる手法は文学的であり、邦画の表現方法を思わせます。

参考サイト