哲学の永遠のテーマ”生きる”とは何か。『アリスとテレスのまぼろし工場』解説
- のろ
- 3月31日
- 読了時間: 7分
更新日:1 日前

目次
はじめに
今回もNetflixをあさっていたら面白そうなアニメを見つけたので、見てみました。
本作は、『心が叫びたがってるんだ。』や『さよならの朝に約束の花をかざろう』などで知られる岡田麿里が監督を務め、『呪術廻戦』や『チェンソーマン』などで注目を集めるスタジオMAPPAが制作を担当したオリジナル作品です。2023年9月に劇場公開されました。
この記事では、ネタバレになる要素を減らすため、あらすじやストーリー展開などは詳しく説明しません。そのため、作品を視聴していないと、理解できない考察なども含まれます。予めご了承ください。
アリストテレスが提唱した概念
本作のタイトルにも登場する哲学者・アリストテレスは、古代ギリシャの哲学者であり、西洋哲学の礎を築いた人物です。その思想は、本作をより深く理解するうえで重要な手がかりとなります。ここでは、その中でも特に本作と関係が深そうな考え方をいくつか紹介します。
作中でも登場する「エネルゲイア」という概念は、始まりから終わりまでの時間を必要とせず、行為と目的が一致した“ただ今を生きる”状態であると説明されています。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「あらゆる行動の目的は“幸福”である」と述べています。そしてその“幸福”とは、何かを達成するためのプロセスではなく、「今この瞬間をよく生きるという活動」そのものであると説いています。つまり、人間の幸福は「エネルゲイア」として捉えられており、この辺はアドラーの個人心理学とも通じていると考えられます。

「物事の本質はイデア界にある」と考えた師であるプラトンに対し、アリストテレスは「本質は現実世界の個々の存在の中にある」と考えており、イデア論には批判的な立場をとっていました。
一気に覚悟が決まる衝撃的な開幕
本作の導入シーンは、主人公の”正宗”が自室で友人たちと勉強会をしている、他愛のない日常のひとコマから始まります。その直後、窓の向こうで眩い閃光とともに製鉄所が爆発するのを目撃し、物語は”二度目の導入シーン”へとループします。
ループ後の世界については、正宗自身が「さっきまでいた場所とは違う」と口にしており、友人たちも同様の感覚を共有していることから、舞台が現実とは異なる“別の世界”で物語が進んでいくことがわかります。
また、冒頭シーンではすでに正宗を含む友人3人と母親の計5人が登場しており、強烈な世界観の説明とともに、登場人物が多く複雑な展開が待っていることが予感されます。
中核となる哲学的な世界観
本作の舞台となる”見伏”の街では、古来より山を神として崇めていました。産業革命の影響を受けて、山を削り鉄を採るようになり、神である山を削る製鉄所は「神機」であると定義しています。製鉄所が爆発した瞬間、この「神機」が力を発揮し、現実世界とは異なる「まぼろし世界」を創り出しました。
「まぼろし世界」では変化が禁じられており、少しでも変化が生じた存在は“消滅”してしまいます。そのため正宗たちは、自分の存在を維持するために定期的に「自分確認票」に“自分とは何か”を記入し、本質の変化を防いでいます。本質の変化が許されないという点では、不変の理想世界であるプラトンの「イデア界」と通じるものがあります。
また、自宅で夕飯を食べる場面では、正宗の母が「見た目がおんなじ様なら、本物と大して変わんないよ」と語るシーンがあります。変化しないことに退屈や息苦しさを感じている正宗たちに対し、大人の一部は「変化しないまぼろし世界」を受け入れている様子が、さりげなく描かれています。

プラトンとアリストテレスの関係から考える、佐上と昭宗の関係性
「まぼろし世界」についての説明を行う場面で、見伏神社の宮司”佐上”は人前に出る直前、正宗の父”昭宗”に対して助けを求めるような言葉をかけます。作中で佐上は変わり者として描かれていますが、昭宗はそんな彼を腫れ物のようには扱っていません。この短いやり取りの中に、二人の社会的な上下関係と精神的な上下関係が描かれます。
現実世界からまぼろし世界に迷い込んだ”五実”について、佐上と昭宗は「この世界に異変をもたらす可能性がある」と同じように考え、まぼろし世界を維持するために、五実を製鉄所の第5号炉に閉じ込めてしまいます。
しかし後に昭宗はその判断を後悔し、自らの本質を見失ってまぼろし世界から姿を消してしまいます。一方で佐上は、この出来事を「昭宗氏は正しい判断ができなくなってしまった」とあっさり片づけています。
物語の終盤、五実の扱いをめぐって佐上と正宗が衝突する場面では、正宗が「クソッ。父さん……何でこんな奴と友達だったんだよ」と吐き捨てるように言い、それに対して佐上は「友達?昭宗氏が僕のこと、そう言ってたの?」と嬉しそうに返します。
アリストテレスは「プラトンは友であるが、真理はさらに偉大な友である」という有名な言葉を残しています。プラトンを師として尊敬しながらも、自らの哲学を追求する姿勢を示しており、学問上での考えは異なっていても二人の関係は良好であったと考えられます。
佐上と昭宗の関係もまた、当初は同じ考えを持ちながら、やがて意見が対立するようになります。しかし、考え方が異なっても、人としての敬意やつながりは残っていた。そうした関係性は、まるでプラトンとアリストテレスのようだと感じられます。
「好き」の本質とは何か
本作では、「好き」という感情も物語の中で重要なテーマとして描かれています。
正宗は人生で初めて、奥手な少女”園部”から告白を受けますが、その気持ちに応えることができません。その結果、園部はまぼろし世界から姿を消してしまい、正宗は強い自責の念に駆られます。そして、「好きは、大嫌いと似ている」「好きは痛い」「好きはあったかい」といった言葉を通して、“好き”という感情の本質に向き合い、葛藤していきます。
正宗の言葉を聞いた五実は、「好き=痛い」と受け止め、やがて正宗と睦実の関係を見つめる中で、自分の心がズキズキと痛むのを感じ始めます。「好きは一緒に“居たい”って気持ちだよ」という一言をきっかけに、自分が正宗に恋をしていることを自覚します。一度は正宗と一緒にいたいという想いから、まぼろし世界に残る選択をしようとしますが、正宗と同じくらい大切な睦実の想いを汲み取り、現実世界へ戻ることを決意します。

物語のラストでは、大人になった五実が再び見伏の町を訪れるシーンが描かれます。誰もいない廃墟と化した製鉄所の第5号炉で、まぼろし世界の正宗と睦実に思いを馳せながら、「この場所で生まれた……私の初めての失恋」というセリフとともに、物語は静かに幕を下ろします。
「生きる」とは何か
何もかもが異常なまぼろし世界で、絵の腕を上げていく正宗の姿を見た昭宗は、自身の日記に「この異常な世界でも人は変われる」と記しています。その日記を読んだ正宗は、絵を描くことについて「未来に繋がらなくたって構わない」と語っており、大義名分があったわけではないものの、褒められた事実は素直に嬉しいと受け入れています。
正宗が睦実に想いを伝える場面では、「すべてまん丸な目で見ようとして、すべてに強く心動かして……生きるって、こういうことなんだ」と、”生きる”ことについて語られます。
また、五実が現実世界へ戻る際の別れのシーンでも、「トンネルの先にはいろんなことが待ってるよ。(中略)楽しい。苦しい。悲しい。強く激しく気持ちが動くようなこと」と語っており、変化し続けることが当たり前である現実の世界を、残酷さも含めて前向きに受け止めようとする姿勢が感じられます。

さいごに
2時間ほどの作品でしたが、展開が早く、退屈に感じる場面はありませんでした。登場人物が多く、設定も複雑なため、最低限の説明にとどめながらテンポよく場面が切り替わっていく印象です。それでも物語が緻密に計算されているためか、話に置いていかれるような感覚はあまりなく、多くの人が自然と引き込まれるのではないかと思います。
ただ、作品のテーマやメッセージには、哲学的な前提知識をある程度必要とする部分もあり、そこが伝わりにくいと感じる人は一定数いるかもしれません。
おそらくこの作品で最も強く伝えたかったのは、「生きる目的は幸福であり、幸福とは“今”をまっすぐに生きること」というメッセージではないかと思います。この点は『夏へのトンネル、さよならの出口』とも通じるものがあり、個人的にはそちらの方がよりわかりやすく、共感しやすい印象を受けました。