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負けを受け入れ成長する物語。アニメ『神在月のこども』解説

  • 執筆者の写真: のろ
    のろ
  • 2024年12月20日
  • 読了時間: 7分

更新日:1 日前


総合評価

目次


はじめに

今回もNetflixをあさっていたら面白そうなアニメを見つけたので、見てみました。


日本の原風景や文化をアニメーションを通じて世界に伝えることを目的としている「cretica universal」が企画。「東京リベンジャーズ」「よふかしのうた」などを手掛ける「LIDENFILMS」が制作を担当している本作は、2社の協力により2021年に公開されたオリジナル作品です。


この記事では、ネタバレになる要素を減らすため、あらすじやストーリー展開などは詳しく説明しません。そのため、作品を視聴していないと、理解できない考察なども含まれます。予めご了承ください。




本作のタイトルにもなっている「神在月」とは

作品の序盤でもしっかり説明されますが、「神在月」は日本の旧暦10月の別名です。この時期に日本各地の神々が出雲大社に集まり、「神議り」と呼ばれる結婚や縁結びに関する会議を開くことが由来とされています。


神議り

「神在月」という表現は特に出雲地方で使われ、出雲以外の地域では神々が出雲に集まるため「神無月」と表現されることが一般的です。




母の存在と走ることへの葛藤

作品の「掴み」となる冒頭シーンでは、主人公のカンナが母親と森の中で鬼ごっこをする姿が描かれます。二人は終始楽しそうで、親子の関係が非常に良好であることが伝わってきます。しかし、「待って。私を置いて行かないで」というカンナの台詞とともに、彼女は夢から覚めます。二人の間に何かが起こったと、分かり易く演出されます。


夢の中で楽しそうに走る姿とは対照的に、授業中に窓から校庭を走る生徒を見たカンナは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべます。その後の体育の授業でも、トラックを走る前に「足がつった」と仮病を使うシーンがあり、カンナが走ることに対して何か複雑な思いを抱えていることがわかります。




カンナの家庭環境と心の足枷

カンナは放課後、一人でスーパーへ買い物に向かいます。小学生が一人で買い物をする姿には少し違和感を覚えますが、帰宅後、仏壇に置かれた母の写真から、彼女の母親がすでに他界していることがわかります。父子家庭という環境の中で、カンナは家事の一部を手伝い、年齢以上の役割を担っていることが示されています。


カンナは来週に控えたマラソン大会を前に、走ることに強い抵抗を感じています。その様子を察した友達のミキちゃんは、「まだ1年しか経ってないんだし、参加しなくても先生はわかってくれるよ」と提案しますが、カンナはその言葉を受け入れません。


物語が進む中で、1年前のマラソン大会でカンナの母が倒れ、そのまま亡くなったことが明らかになります。「私が1位を獲っていれば、お母さんは倒れなかった」と自分を責め、カンナは順位という結果に強く執着するようになります。その執着が彼女を苦しめ、走ることの楽しささえ奪っていきます。


さらに今年のマラソン大会では、参加を勧めなかったミキちゃんが1位でゴールします。負けず嫌いなカンナにとって、その結果は面白くなかったことでしょう。カンナは「走る」ことへの葛藤を、最も相談しやすいはずのミキちゃんにさえ打ち明けられず、悔しさと孤独を一人で抱えていたのかもしれません。


悔しさと孤独を一人で抱える



超急展開な韋駄天のお役目

マラソン大会の途中でゴールせずに抜け出したカンナは、途方に暮れながら雨の降る神社で、お母さんの形見である石を腕に通します。その瞬間、韋駄天の力によって時の流れが極度に遅くなり、神々の姿を視認できるようになります。


神使である兎のシロから、自分が韋駄天の末裔であり、各地を駆け巡って集めた馳走を出雲に届けるという重要な役目があることを知らされます。最初はその役目に意味を見出せず、乗り気ではないカンナ。しかし、シロに「出雲にはあの世に通じる場所があり、お母さんに会えるかもしれない」と唆され、出雲へ向かう旅が始まります。




カンナに影響を与えた存在

出雲への旅の道中で、カンナに最も大きな影響を与えたのは、鬼の少年「夜叉」でしょう。


韋駄天には、悪鬼に盗まれた釈迦の遺骨を驚異的な速さで追いかけ、無事に奪還したという伝説があり、これが「足の速い神」として知られる由来となっています。その悪鬼の末裔である夜叉は、先祖代々韋駄天を敵視しており、出会った当初はカンナに因縁をつけてきます。


夜叉は、生まれながらに韋駄天に敗れた者の末裔として「負け」を背負って育ったためか、負けず嫌いなカンナとは対照的に、「負ける」ことに対して抵抗感を持ちません。また、彼はカンナの母とも交友があり、カンナに対して深い理解を示す存在でもあります。物語が進むにつれ、夜叉はカンナの良きライバルであり、最も彼女を理解する存在として描かれていきます。


諏訪大社の龍神(建御名方神)も、カンナに影響を与えた1人です。


龍神

国譲り神話において、建御名方神は父(出雲大社に祀られる大国主命)の国を守ろうと、武神として建御雷神と戦いましたが、敗北を喫します。その後、諏訪の地に逃れ、それ以来出雲を訪れることはなくなりました。


龍神は、カンナに韋駄天としての覚悟が足りないとして試練を与えます。試練は失敗に終わりましたが、その過程でカンナももう親に会うことができないと知り、同じ想いを抱える存在として彼女を受け入れました。


夜叉も龍神も、「負ける」ことを新たな機会と捉え、次の道へとつなげている点で共通しています。




無が生み出した「神もどき」

作品の序盤、カンナが窓から校庭を走る生徒を見るシーンで、彼女の足元から小さな黒い影が現れます。その後、ウサギ小屋で「私、やっぱりもう走るの…」とつぶやく際にも、影の演出が加わります。さらに旅の道中、森で寝る場面では、「いま誰かに見られてた気がする」と、得体の知れない影の存在を感じて怯えるカンナの姿が描かれます。


物語の終盤で、その影の正体が「神もどき」であることが明らかになります。シロの説明によると、それは「無気力、無自覚、無関心から生まれた“無”の存在」であり、現代の禍津神になろうとしていたといいます。日本神話における禍津神は、「和魂」と「荒魂」という二面性を持ち、正しい祓いを行うことで和魂へと転換されます。この考え方は、悪が単なる否定的なものではなく、調和をもたらす一要素として捉えられる二元論に基づいています。シロがこれを「神もどき」と称したのは、その二面性のバランスが崩れ、調和が取れていないからでしょう。


誰の心の隙間にも入り込む神もどきは、カンナに取り憑き、一度は韋駄天としてのお役目を放棄させてしまいます。しかし、再び出雲を目指すと決意したカンナの強い意志によって、神もどきの狙いは失敗に終わります。




母の願いとカンナの成長

母が亡くなった翌年のマラソン大会で、ミキちゃんが1位でゴールする姿を目の当たりにしたカンナは、その場で走ることを止めてしまいます。


父が駆け寄り、「お母さんも言ってただろう、順位よりもゴールすることが大事だって」と声を掛けますが、当時のカンナは順位に固執しており、「簡単にわかったようなこと言わないで」と反発。そのままゴールせずに大会を放棄してしまいます。


神もどきに取り憑かれたカンナは、同様に韋駄天のお役目も放棄しそうになります。しかし、森の中で鬼ごっこをしている冒頭シーンの続きが描かれ、走ることを純粋に楽しんでいた自分を思い出します。最終的に「最後までちゃんと走りたい。自分の好きを信じたいの」と意思を表明するカンナは、作品を通じて大きな成長を遂げています


好きこそ物の上手なれ



さいごに

物語の重要な分岐点となる、カンナが出雲に向かうことを決意するシーンは、本作で最も理解しづらい部分でした。唐突に登場する韋駄天という存在や、神々の世界という非現実的な超展開が、多くの人は受け入れがたいと感じられるかもしれません。さらに、カンナが出雲に向かう決意をする動機が不十分であるため、展開に説得力を欠いています。全体を通して、ここの消化に時間がかかり、物語への没入感はほとんどありません。


本作は、1人の少女が負けることを受け入れ、成長していく物語です。カンナ自身が「自分の好きを信じたい」と語っているように、この作品のメッセージは「好きこそ物の上手なれ」といったところでしょう。




参考サイト

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