代わりに語ることの暴力性。佐多稲子『色のない画』考察
- げん坊
- 2024年12月24日
- 読了時間: 6分
更新日:1 日前
目次
はじめに
平成から令和と変わり、時代が移り変わっていく中で現代においては忘れ去られて行ってしまう、そして知ることすらなくなってしまうような昔活躍した近代文学作家を紹介したいと思います。

今年、故人ではありますが生誕一二〇周年を迎え、記念として特別展が開催されたり、書籍も出版された女流作家の佐多稲子です。そんな彼女の生まれは長崎でありましたが、育ちは東京であり、被爆を体験した時代ではあるものの、東京にいたため直接的には被爆していない複雑な立場でした。ですが彼女は小説で被爆した故郷である長崎の傷痕について描いたものがあり、今回はその小説「色のない画」について深堀していきます。
本作は、『群像』編集部の勧めにより長編化されました。その長編小説が、佐多稲子の戦後の代表作ともいえる、『樹影』です。
それでは、簡単なあらすじを紹介したいと思います。
長崎が故郷であるものの、東京に長く住んでいた私は故郷の友人である画家のKさんの出品された画を見るために、東京の美術館へと訪れていた。しかしその画は、Kさんの遺作であり、前までの画で見られた色鮮やかな色彩は見られず濃淡だけで描かれた色のない画だった。それをKさんの弟のIさん、Kさんの友人でありながらIさんの妻の姉であるYさんと三人で鑑賞し、過去に長崎にてKさんと話したことやYさんから受け取った手紙とことを思い出し、その色のない画に思い浸っていく。
本作では最後まで、Kさんの画の色がなくなっていく理由が語られません。長崎の傷痕を描いた小説であるにも関わらずなぜ語られないのか、本文をもとに考えていきたいと思います。
史実により露わになるモデル
原水爆禁止世界大会のため「私」が長崎に訪れた際に、「Kさんが二階の窓からつずいた物干台」に「金づちを打ち」、「私の行水の場を急ごしらえして」くれたエピソードは作者のエッセイである『屋根のうえの行水』で描かれています。このことから本作は作者の実体験に基づいた私小説的作品であるということは想像に難くありません。
そして、『屋根のうえの行水』では「Kさん」と「Yさん」は実名で登場していることから、それぞれのモデルが長崎に住む親友の画家である池野清、池野清の弟である池野巖の妻の姉林芳子であることは確かな事であると言えます。
暗闇に閉ざされた長崎華僑
林芳子は、長崎に在住する中国人、長崎華僑であり、日本に拘束されている境遇に対し「不満と抵抗感」を感じていました。それではなぜ「Yさん」がそう感じてしまうのか、当時の日本における長崎華僑の扱われ方はどのようなものだったのでしょうか。
戦前当時、関東大震災の混乱の中で関東大震災中国人虐殺事件(一九二三)が起きたり、万宝山事件(一九三一)を皮切りに在日中国人を襲撃する事件が都心部で相次いだりなど、在日中国人の扱いの不遇さは日本全域に亘るものでありました。その中でも、とりわけ長崎華僑の境遇は酷なものでした。盧溝橋事件(一九三七)の起こった際には、長崎華僑のほとんどの家から一人は検挙され、「Yさん」の家でも父親が留置されてしまったこと、そして、華僑は戦時中ずっと長崎の街から外へ出ることを禁じられたこと、これらのことなどによって長崎華僑には自由がなく、日本に拘束され続けてきたといえるでしょう。
そのため「Yさん」は、「中国人としての自分やまわりに苛立たしいおもいを抱き、孤独を感じ」ていたことを手紙で述べ、「華僑の世界に窓はなかった」と表現しました。

察しの悪い「私」
東京にいる「私」と、長崎にいる「Kさん」と「Yさん」では、物理的に距離があるからであろうか、「私」だけ被爆していないからであろうか、「私」は二人の「胸に秘めている」「不安」に「気ずかなかった」。それは、二人と直接会った時でもそうでした。
長崎に帰ったとき、KさんやYさんに逢いこの人たちの家で泊めてもらったりしながら、この頃まるで無神経に、このひとたちと原爆とを切り離しているのであった。このひとたちだけ長崎の街に投下された原子爆弾の、放射能の外にいたものとおもっているようであった。
と、「私」自身の「Kさん」と「Yさん」は、「放射能の外」にいるという理想をあたかも現実であるかのように投影し、二人のおかれた現状を無視して接していました。前述した長崎華僑の境遇においても、「私」は深く考えませんでしたがしかし、いつになく「打ちあけた心境を」「Yさん」からの手紙により伝えられ、ようやく現実を知りました。
このことを踏まえると、「私」の考えや、「Kさん」「Yさん」の考えや境遇に対する「私なり」の考え、解釈は信じるに値するものなのか、もっと奥底に真実があるのではないかと疑問がわいてしまい、「私」は本作において信頼できない語り手ともいえるのではないでしょうか。
無神経さの野放し
「私」は、「Kさん」の画に色がなくなっていったことに関して語る際に、
色を失わしめたものの名は、それは何となずけられるであろうか。この画の連想は、ありきたりの観念を寄せつけなく見えた。それは別の何かであるように見えた。(中略)色を失って描かれねばならなかったことの名づけようのない悲痛さに見えた。
と述べました。ここでは、「何となずけられるであろうか」「別の何かであるように見えた」「名づけようのない」と、複数回にわたって言語化することのできない何かによって色が失われていったのだと語ります。

代理表象の帯びる暴力性
それではなぜ、佐多稲子はこの話を小説にしたのでしょうか。本当に無神経であったら、被爆の痛みを小説にすることはなく、完全に語らないという選択をするのではないでしょうか。
たとえば、あなたが生物学上男性で同性愛者いわゆるゲイであったとします。そしてゲイであることで生じる生きにくさも含めそのことを友達に打ち明けると、友達はすごくあなたに同情しほかの友達にもゲイであることの生きにくさをまるで自分の辛み苦しみのように話していきます。その状況をあなたはどう思いますか。代わりに悲しんでくれてうれしい!、ゲイでもないのにそんな悲しむの何なんだよ…。感じ方は人それぞれですが自分が負うたわけでもない状況やそこから生まれる感情を代わりに述べるという行為は、時に当直人を、より傷つけかねないということです。
「色のない画」では佐多稲子が被爆の痛みを語れないということを語ったのです。それは、池野清や林芳子を想う気持ちがあってこそだと思えます。被爆の痛みを完全に語らないことも、被爆の痛みを完全に語ることも無神経であるといえると思います。被爆の痛みを語れないことを語るというのが、一番被爆の痛みを語れているということです。今作は被爆した故郷である長崎の傷痕について描いた小説でありながらも、佐多稲子が無神経さからの脱却をする一歩目であるともいえるでしょう。

さいごに
なぜ「Kさん」の画に色がなくなっていったのかは最後まで言語化されないのかというと、簡単に言えば被爆者にしかわからない痛みがあるからということでした。
同時代の被爆を描く小説作品では、その痛みを直接的に描くものばかりでしたが、それを跳ね返す、この「色のない画」はそこにこそ佐多稲子の魅力があります。本作を読んだことがある人もない人もこのことを踏まえて読んでみるとより感じるところが多いかもしれません。ぜひ、いま一度読んでみてください。